2014/02/15

- オレ流写真論 (3) - 感性のはなし

感性のはなし。

生まれ持っての感性。
 昔長崎の高島と言う島へ渡った時、島の子供達にカメラを渡して、遊びながら写真を撮りあった事がある。
下は幼稚園くらい、上は小学校3年生くらいだったろうか。
フルマニュアルのカメラ…露出はとりあえず固定して、ピントは被写界深度でカバー。数人でカメラを取り合いしながら写していた。

 東京に帰ってきて自分の写真とともに現像したら、さすが子供の撮った写真ばかり並ぶ中に、意外にも目を引くスリーブがあった。
ピントはボケていたものの、その子が興味を持ったものが、そのコマからしっかりと伝わってきた。そのときの状況を思い出すと、多分一番熱心に撮っていた男の子が撮ったものと思われる。
構図なんて本で見るような何対何とか対角線とか黄金分割とか、そんなもんまったく無視だけど、バランスがしっかりとれ、余計なものが入り込む余地もない程、その被写体にしっかりと寄ったフレーミング。
被写体は大人ならカメラを向けることもないだろう、ドロ団子とか友達の体の「一部」だったり、それはまさにその子が見た、その子が興味を持った視点だった。

次に高島のその公園へ行った時、まあ誰かしらいるだろうと、みんなが写ったプリントを持って出たのだが、結局あの日以来会っていない。今頃どうしているだろう。
 ひとはいつからか…もう物心がつく頃には感性の差やセンスと呼ばれるものは出来てしまっているのだろう。この写真を見た時そう思った。

感性を鍛える。

初めて言葉をしゃべったのはいつですか?
初めて文字を書いたのはいつですか?
個人差でばらつきはあるものの、ほとんどの人は大人になるまでに会話が出来、文章が書ける。ただ、しゃべりがうまい人もいれば苦手な人もいるし、字がきれいな人や文章がうまい人もいれば、からっきし駄目な人もいる。
感性というものも、それらと同じ様なものと思う。自分には感性がない、センスがないと思うのなら鍛えて磨きあげればいい。皆と同じように生きて来ているつもりでも、ちょっとしたことの積み重ねで、ゆっくりゆっくり差が開いてしまっているだけで、ならその「ちょっとしたこと」に気づけさえすれば、感性は誰にでもまだまだ伸びる余地があるはず。

 写真だけではない。

 写真の感性を鍛えるからといって写真だけを見るよりも、いろいろな事を経験した方がいい。いいと思う事ばかりでなく、悪いと思うような事も沢山。写真に写っているものは写真の世界にだけあるものではなく、現実の世界にあるものだ。また写真なんてわずか200年足らずの歴史しかない狭い世界に留まる必要もない。写真と言う物にこだわらず、いろいろな物を見て、そして感じて、考える事が大事だ。

 勉強やスポーツと同じ。

 使ってないと落ちてくる。自分が続けられるくらいのペースで無理をせず、それでも理想は毎日心に刺激を与えよう。片時離さずカメラを持ち歩かなくたっていい。その代わり、カメラがない時には、心の中で写真を撮ろう。
それは気づかない位ゆっくりかもしれないが、だんだんと積み上げられ、いつか写真に生きる時が来るはず。今まで撮っていた癖もあってか、写真にはなかなか現れないかもしれないが、何かをつかんだ時に段階的に伸びるものだから、焦らず続ける事が大切だ。

2009.6.26