2012/01/02

インプット、アウトプット、そして体感。


ちょっと久々に長い話…(笑)
途中から写真の話に繋がります。
元がツイッター向けに140字で収まるように書いてありますので、少々分かりにくいところや説明不足のところもありますが、ご了承下さいませ。
ただ、説明不足的なところは、自分の考えを掲示したいというよりも、読んだ人が考えるきっかけになってくれると嬉しいので、いつも遠回しに書いてある部分もあったりします(笑)



勉強が面白くないという人で多いのが、先生がつまらないと言う話を聞く事は多い。じゃあおかしい事をいう先生がいいのかというと、それはまた違う気がする。確かに興味は引くだろう。リラックスもするし覚えやすくもなるだろう。

本当につまらない先生とは、一方的にしゃべるだけの先生ではないだろうか。人は自分で考え、自分で出力し、それを認めて貰えた時、多くの喜びが生まれる。基本的に自分が中心だ。



インプットばかりが続いた時、それがどれだけ楽しいものであっても、興味があるものであっても、眠くなってしまったりしないかな?
周りが暗いという事もあるが、楽しい映画を見ているのに眠気が襲ってきたり。

これが今のTVにも当てはまる気がする。クイズ番組は多いが、芸能人のリアクションありきのクイズをやっているかの様な…。家族揃って出演者と同じ様にクイズをやったり、視聴者参加型TVもかなり減った。一方的に流すだけの番組。

どれだけ可笑しくても、一方的である以上、極端な話「可笑しい」であって「楽しい」ではないのではないだろうか。

人は「体感」をしてみたいもの。知識が増え、情報が増えるほど、興味の出た事を体感をしてみたくなる。その中心にあるものは「自分が…」。これは勉強やテレビだけでなく、他にも密接に関係する大きなものではないのかな。

世の中のほとんどはこの「体感してみたい」という欲求から出来ている気がする。
ただそれは、同じ分野内であれば一度体感した時点で既に興味のないものと成り得る。そしてもっと刺激の強いものを求めようとする。

しかし、体感したくとも出来ないものもある。例えば、人の心の中だ。
知ったところで一体となる事は出来ない。だから知れば知る程その人に興味が湧く事もあるだろうし、それがまた異性ならば恋愛に発展する事もあるのかも知れない。

だから考えが揺らいでいる人や、あまり持っていない人の話よりも、例え自分と違ったとしていても、考えのしっかりしている人の話の方が面白かったりする。
成程、この人はこんな風に考えるんだな、といった感じで。


写真でも考えてみた。
多くの日本人に好まれる風景写真…これは綺麗、凄い、見た事ないなど情報の集合だろう。そしてその情報から、行ってみたい=体感してみたいという気持ちも生まれる。
だからそこにあるのは、極端にいえば只の情報なのかも知れない。

風景写真以外ではどうだろうか。



最初は好きに写真を撮っていたのに、いつからか気構えて撮るようになってしまい、写真がつまらなくなった…写真を撮り始めて少しした多くの人にあることだ。
本人が気付く以上に周りもそのことに気付く。
いったい何故そう感じるのか。

多分、「いいと言われる写真、いいと思った写真」を意識する事で、その人の心の中が周りに見えなくなるからではないだろうか。

言葉で例えるなら、自分の思った事、理解や経験から来た事ではない言葉をそれっぽく名言風に伝えるとしたならば、既にそれを知っている人からみると、その言葉が薄く聞こえてしまうような。経験していなくとも、そこに違和感を感じる場合もあるだろう。

写真も同じくして、写真にその人が見えなければ、そこに興味を持つ人も少なくなるだろう。上手い下手は関係ない。心の中が見えているか見えていないかだ。

ただ、先にも言ったように、多くの人が経験すると同時に、多くの人はそこから脱出もする。いいと思った写真を意識する事も、真似する事も必要であり、またいつか真似しているだけの自分では物足りなくなるものなので、そこは避けるべきではなく、むしろより多くの、そういったものを持つべきと思います。