2011/09/19

「自分を崩す」ということ。


Twitter、@ponhouse1993で呟いた話を少しまとめます。

Twitterの岡本太郎botから…
@okamoto_taro_bt
自分に忠実だなんて言う人に限って、自分を大切にして、自分を破ろうとしない。大事にするから、弱くなってしまうのだ。己自身と闘え。自分自身を突き飛ばせばいいのだ。炎はその瞬間に舞い上がり、あとは無。爆発するんだ。全身全霊が宇宙に向かってパーッとひらくこと。それが「爆発」だ。


これが、ぼくの生き方自体も含めて、「自分を崩す」ということ。それが「爆発」と同義だったことを知る。
自分のやり方、性格はこうだと決めつけないで、柔軟に変えることが結果として自分を苦しめない。

通そうとしている、守ろうとしている自分は、よくよく考えてみると自分にとっても大した事がない部分が多いので、崩しちゃっても大丈夫だよ、というのがぼくの言う「崩す」という事。


この大した事のない部分=自分と錯覚している部分は、親や周りなどの環境によって付けられたもの…というのが仮説。

そして昨日新たに気付いたことがひとつ。
「環境によるものを、何故そこまで大事にするのか。」

自分と思っているもの…それは環境に適応するために「やむなく」とった道や方法。それは自分でも考え、選択した結果…だからそれを「自分」と思い、大事にしようとする。
しかしこれには「やむなく」とって身に付けたものだということが忘れられてしまっていると。

本来自分が望むべきものではないと。まだ幼いために経験の少ない自分がとった、当時の最善の方法を今も大事にしていると。人は誰よりも自分の成功体験を大事にするから。

歳を重ね、経験が増え、もっと応用が効く頃になったら、その頑なに信じていた部分をもう一度疑い、考え直してみる。それが「崩す」=自分の再構築になり、もっと楽に生きる為に必要なことと、そう考えている。

大元は自分を守るための事が、将来自分を縛る事にも成り兼ねないという事である。

思春期が自己の確立だとすると、中年になって現れる思秋期は本当の自己の発見だと昔ブログに書いたことがある。
思秋期までの間、何も変わっていないわけではなく、常に心は自己を求めている。

思春期が一段落する頃、本当の自分を探す為に「自分探し」をするといった事が流行りの様にあったが、あれもそのひとつじゃないかと…。

思春期の頃に十分に自己を確立出来なかった為に、その後も求めるのではないか。確立出来なかったのは、確立させてくれなかったと言った方がいいのかもしれない。
強制というものが多過ぎて。



昔、このブログやTwitterではおなじみの(笑)姪っ子に勉強を教えていた時、彼女はよく「自分のやりかた」というものに拘っていて、そういえばぼくも拘っていた時期があったなあ…と考える事があった。
「自分らしく」とか「自分の色」とか「個性」とか…。
何故自分のやり方に拘るのか…こっちの言うことを聞いてやってみれば効率がいいのに…と経験者は思いがちだが、発せられた言葉にはその理由が必ずあるはずであり、何故自分のやり方を主張せざるを得なかったのかは考え、受け止めなければならない事だろう。
頭ごなしにさせる事は、言うことを聞かないばかりか、無理に強制させると、いつか自分を求め、そこに拘り、結果として自分の自由さを拘束する事になるかも知れない。

という事を考えてみました。前回とあまり変わってはいないのですが、今回は自分に拘り過ぎると「苦しみの元に成り兼ねない」という部分に着目してみました。
当たり前の様に思っている自分のやり方、考え方…それは「何故なのか」を考えてみる事が、本当に自由になるための一歩になるのではないかと思います。