2014/03/15

- オレ流写真論 (12) - 写真をつまらなくする方法

むかし「○○○を100倍楽しくする方法」の様なタイトルの本が流行った時がありましたが、同じ様に「写真を100倍楽しくする方法」だと在り来たりなので、その逆…写真を撮る事が100倍つまらなくなる方法です。

子どもの頃夢中で遊んだ記憶…思い出してみてください。
写真を撮って楽しかった時の記憶…思い出してみてください。
何も考えず、無我夢中だったあの頃。
こうすればもっと楽しくなるとか上手く出来るなんてことも考えていなかった。だってそれを考え始めるということは、既に飽き始めているということですから。
無我夢中…それを邪魔している物はなんだろう。

「いい写真を撮りたい」…ここで言う「いい写真」とは「自分もそうしたい」、「そういう写真が撮れるようになりたい」…という写真のこと。
それは憧れで、また自分に対する期待や希望でもあり、そういった目標の中で人は生き生きとします。
しかし、それがあまりに遠く、自分には手が届かないと感じた時。
それが憧れであったとしても、最初は素晴らしいと思っていたとしても、そこに手が届かない物だと感じた時に、諦めにも似た無力観と共に怒りの感情も生まれます。
それは自分を正当化し、意味のない存在ではないとしたい為の防御反応です。

そもそも諦めとは無常観ではありません。ネガティブな事でも、悪い事でもありません。
自分の現状が「そうである」とただただ知るだけの事なのです。
それは今現在であり、未来はどうなるか分からない事でもあり、また方向が元々違っていただけの事かもしれない。
今の自分を否定していたら、未来の自分に希望なんて持てませんよね?希望がなければ今なんて楽しくないですよね?
諦めというのは、ありのままの「今の自分」を知る事なのです。

実践的に書くと、あまり周りと比較しない事。高い所ばかりをしっかりと見過ぎない事。
しっかり見なくてはならないのは自分の事です。


コンテストというもの。
コンテストで賞を取りたい。あわよくば金賞を狙いたい。そういった競争心は結構な事です。頑張ろうという励みになりますから。ただ、そこで気を付けてもらいたい事がひとつ…。
賞を取る事が目的になっていないか。
賞を取る為に、審査員に、人に気に入られるように写真を撮っていないか。
子どもの頃楽しかった記憶。
写真を撮り始めた頃楽しかった記憶。
人の目なんてどうでも良かった。ただただ楽しければ良かった。

「いい写真」という、絶対的な物は何処にもないんだ。
それなのに、賞を取りたい為、審査員が好きそうな、多くの人が好きそうな、どこかで評価されているような写真を「いい写真」と自分の中で定義を付けて、そこから外れた物を認めないせいで苦しむのは自分なのです。


機材という物に振り回されること。
新しい機材はワクワクします。それを使って、もっと写真を撮りたくなったりします。
それを使えば、綺麗な写真が撮れるかもしれません。「成功」の歩留まりも上がるかもしれません。
でも、写真を撮る事ではなく、いいカメラを使う事が目的になってはいませんか?
そして、新しい機材を買う時に、これは必要な物だと自分に言い聞かせてはいませんか?
いい機材を使う事はもちろん悪い事ではありません。
しかし、良い機材を持っている人への嫉みに呑まれてしまった人を沢山見ています。
その人達を見ると、楽しそうに写真を撮っているようには見えません。
人よりもいい機材を買った、使ったといった時に嬉しそうにはしていますが、それは誰かよりも良い物を持っているという優越感であって、自分が努力した結果つかみ取った達成感ではないのです。


次々と新しい機材は出てきます。
写真に対しての考え方も時代と共に変化して行きます。
ただ、古い物より新しい物が必ず優れているわけではありません。
物も価値観も、昔の方が良かったというものは少なくありません。
新しい物の方が良い物ももちろんあります。
「正解なんて物はなく、時代は常に流れて行く物」という事は当たり前のはずなのに、人は何故これが正解だと決めようとするのでしょう。こうでなければならないと決めようとするのでしょう。
誰かと比べない。写真はこういう物である。
そんな考え方を捨て、写真を撮る事をただただ楽しむ…初めて写真を撮った時のように。
それが写真をつまらない物にさせない方法…いつまでも楽しく写真を撮る為の秘訣です。


このオレ流写真論ももちろんそうですよ。これがすべてではありません。これが正しいわけでもありません。
大事な事は、自分にとって大事な事がなんなのかをずっと探す事だと思っています。